勝興寺について

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勝興寺の歴史

勝興寺の歴史

勝興寺は東京四谷にある曹洞宗の寺院。山号は『法輪山』と言い、約460年の歴史を誇ります。

曹洞宗(そうとうしゅう)は、今から八百年ほど前の鎌倉時代に、「道元禅師(どうげんぜんじ)」が正伝の仏法を中国から日本に伝え、「瑩山禅師(けいざんぜんじ)」が全国に広められ、「曹洞宗」の礎を築かれました。このお二方を両祖と申し上げ、ご本尊「お釈迦さま(釈迦牟尼仏)」とともに、「一仏両祖(いちぶつりょうそ)」として仰ぎます。

初代の東竹院四世雪庭春積大和尚が麹町清水谷に草庵を建てていましたが、寛永11年外濠を作成し、天正10年(1582)創建、江戸城外堀建造の拡張の際に伴い、寛永11年(1634)当地へ移転し現在に至ります。

また、死罪執行の打ち首役の「首切り浅右衛門(山田朝右衛門)」を代々務めた、6代目と7代目のお墓があります。

首切り浅右衛門

首切り浅右衛門 首切り浅右衛門

浅右衛門のお墓 浅右衛門のお墓

●首切り浅右衛門

首切り浅右衛門(山田浅右衛門家)は代々、将軍家の刀の切れ味を試す新刀鑑定の試し切り「御試御用約(おためしごようやく)」を代々勤める家でした。

そしてその当時、刀の切れ味を試す場合、藁や竹を使うことが多かったと言われていますが、山田浅右衛門家は、人体での切れ味でしか試し切りをしなったと言われています。

そのようなこともあり山田浅右衛門家は、斬罪人の処刑を行う「打ち首」の代役も代々世襲していました。

そこで、山田浅右衛門家は人々から「首切り浅右衛門」と呼ばれていました。今聞くと恐ろしい職業ではありますが、当時は名誉な仕事だったと言えます。

そのため当主は「首切り浅右衛門」と呼ばれ、維新後も他の中堅以下の同心同様に新政府の指揮下に入り、家業を続けていました。7代目山田朝右衛門吉利は、安政の大獄の際に、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎の首を斬った人として名が知られています。

また、奥羽越列藩同盟のオルガナイザーの一人で詩人として知られる雲井龍雄(27)の斬首刑に当たったのも、八代目浅右衛門・山田吉富(32)の弟で、最後の浅右衛門と呼ばれた吉亮(よしふさ)(17)と言われています。

首切り浅右衛門 首切り浅右衛門

浅右衛門のお墓 浅右衛門のお墓


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